『Once More Chance』
ボールがいっぱいに詰まった箱。ずっしりと重く、凪にとってはかなりの負担であった。
「ん…っしょ。」
しかし、いつも持ってくれるもみじは今日は休みだ。猫湖も用があると言って帰ってしまったし、もう野球部関係者で残っているのは自分だけだろう。ここは、一人でもなんとかしなければ。そう思いつつ、精一杯の力を腕に込める。と。
「あ…」
少しよろけた拍子にボールが一つ、ころんと落ちてしまった。
「い、いけない……」
てん、てん、てん。軽い音をたてて弾みながら転がるボールを、箱を置き慌てて追いかける。そして、もう少しで追いつける、という時に、目指していたボールが誰かの手に掴まれた。
「え?」
ボールを追うのに夢中で全く気付いていなかったが、そこにはいつの間にか人がいた。すこし土茶けたボールを握る手は、厚めの手袋で覆われている。金色の髪が、ほんの少しだけ風に揺れた。
「はい。これ。」
「う、牛尾主将…?あっ、ありがとうございます!!」
わたわたとボールを受け取る凪を、牛尾はすこし笑みを含みながら見ていた。
「その箱を運ぼうとしてたのかい?」
指差された先には、先ほど地面に置いたボール入りの箱があった。慌てていたため、二つほどボールがこぼれている。
「は、はい…でも、私にはちょっと重くて…よろけちゃったんです。やだ、また零れてる」
恥ずかしさで少し頬を染めながら、凪がボールを拾おうとする。すると牛尾が、二つのうち一つをまた拾ってくれた。小さい声でどもりながら、再び礼を言う。すると、良いよ・とまた微笑んで首を横に振って、それからこともなげに、
「僕も手伝おう」
言った。
当然凪は慌てに慌てる。
「そ、そんな…大丈夫です!私一人でだって、これくらいっ……」
「ははは、そんなに気を使わなくてもいいよ。マネージャーたちにはいつも世話になっているし、丁度練習が終わった所だからね。」
「え……今まで練習を?もう真っ暗なのに…」
「うん。まあ、居残りのうち半分はトンボかけだけど…やらなくちゃ気がすまなくて。」
それじゃ、行こうか。
言うと、よっ・という小さい掛け声と共に、箱は軽々と持ち上げられた。
せめて、と言って牛尾が持っていたトンボを手に持ち、凪は牛尾と歩き始めた。しかし、トンボ一本でさえ運ぶのが少し辛く、まったくもって情けないと思う。
そんな自分を気遣ってか、牛尾ももかなりのスローペースで歩いてくれていた。道具置き場までの二百メートルほどは意外に遠く、他愛もない会話がぽつぽつと交わされる。
「牛尾さんは、本当に野球が好きなんですね」
「はは……もうこれ以外には長所もなくてね。」
そうでしょうか、と相づちを打ちながら、今のセリフをもう一度、あの三年の鹿目さんの前ででも言ってもらいたいな、と凪は思った。何が「長所がない」なのだ、お前なんでも出来るじゃないか、と、憤慨する姿が容易に目に浮かぶ。凪自身でもそう思っていたのだから。
「……私、牛尾さんがうらやましいです」
「そうかなあ?みんな言うんだよね、牛尾はなんでも出来ていいねって」
「そうじゃないんですか?」
「うん。僕にとって、完璧だったことなんて一度もないよ。少なくとも、中学時代の知り合いはそう言っていた。おまえはせいぜい野球に対する執念が合格ラインにのるくらいだ、って。僕もその通りだと思ったよ。野球への想いだけが人一倍で、他の事なんか一人じゃ何にもできないただの箱入り息子だってことぐらい、とっくの昔に自分で気付いてたからね。」
話しているとき、一瞬だけ、牛尾の目が宙を彷徨った。まるで、見えない何かを見つめたいのに見つからない、とでもいうかのように。
哀しい目だ、と凪は思った。
「…私も、野球が好きでした。」
「うん。鳥居くんはいつも嬉しそうに僕らの練習を見ている。こっちまで嬉しくなりそうだって、みんな言ってるよ」
「でも……」
疲れで汗ばみ始めた手をじっと見つめてみた。いつ見ても貧弱で、頼りない手だった。
もしも、この手がもう少しだけ強かったら。
この肩がもっとしっかりしていて、足も素早く動けていたなら――…まだ自分は、ソフトだけでも続けていられていたかも知れないのに。
「……好きなだけじゃ、駄目なんですよね。」
「………」
「好きなだけじゃ、届かない……。」
ほんの少し、沈黙が降りた。藍色に滲み始めた空は、どこまでも澄んでいる。三日月が、細く淡く、白い光を放っていた。
「…そうだね。」
やっと、牛尾が言った。心なしか、箱を持つ手に少し力が入ったように見えた。
「もしも、好きっていう気持ちだけで生きていくことが出来たなら、どんなにかいいだろうね。」
「……。」
「人はみんなみんな、何かを、誰かを好きになる。なのに、人自身が作った社会は、その気持ちを潰すことしかしないし、出来ない。」
月の横で、星が、かすかに輝き始めた。
「社会を続けるために、これからもきっと、たくさんの人の気持ちが殺されるんだろうね。そして、それらの気持ちは全部、持っていた人にさえ忘れられていくんだね。」
すでに、道具小屋の前まで来ていた。両手のふさがっている牛尾に代わり、凪が扉を開ける。薄暗かったので、入り口脇のスイッチを入れて電気を点けた。古くなった蛍光灯が、ぱちぱち瞬きしながら部屋を照らす。
トンボを部屋の隅のほうに置きながら、凪がぽつりと言った。
「…哀しい、ですね。」
牛尾はボール入りの箱を棚に上げているところだったが、凪の言葉は耳に入ったらしい。
「…うん。哀しいけど、でも、もうそういうふうになってしまってるんだよ。大昔の人々みたいに動物と同じような暮らしをすることは、二度と、できない。社会というものを作ったからにはそれを守らなくちゃ、僕たちの生きていく場所なんて無いんだ」
「……じゃあ…好きになっても無駄、ということなんでしょうか」
「かもしれない。でもね。」
蛍光灯に照らされた牛尾の頬は、はっとするほど白く見えた。口元には、普段のそれとちょっと違う、しかしやはり温かい笑みが浮かべられている。
「きっと、人は何かを好きになるのをやめることなんて、できないんだ。そりゃ、一部の人は生きることをやめたり放棄したりすることでそれを成し遂げているよ。でもそれは本当の意味で好きになるのをやめていない。逃げてるだけさ。人は生きている限り、好きなものを作らずにはいられないんだよ」
ぱちん、と音を立てて電灯のスイッチが切られた。凪は一瞬目がくらみ、一旦目をつぶった。少しでも早く闇に慣れるように。
目を開けた。再び開かれた視界の中、閉じる前と全く同じ笑顔を浮かべて、牛尾は立っていた。
「だったら、僕たちはそれを受け入れ、精一杯守っていくしかないよ。例えひとつ、失くしてしまったとしても、いつかまたそれに代わる新しいものが出てくるんだ。そしたら今度はそれを守ればいいさ。繰り返しばかりで、無意味に思えるかもしれないけれど、失くすことは決して悪いことじゃない。捨てようとさえしなければ、ね。」
目を丸くし、ただ無言で自分を見つめている凪にまた微笑みかけた後、牛尾は小屋の扉を開けた。
「じゃあね。お疲れ様、鳥居くん。またあし…」
「――…牛尾さん!」
振り向いてみると、凪が、聞こうかどうかとためらいながらも、視線を真っ直ぐ自分に向けていた。ゆっくりと、その口が動く。
「…あの…牛尾さんは、何かを捨ててしまったことが、あるんですか?」
しばらく凪を見つめたあと、牛尾はまたあの空ろな瞳になり、にっと笑った。目が真っ暗で、笑っているのは口元だけだ。
「…うん。昔の話さ」
扉を開け放したまま、牛尾は歩み始めた。もう空は、濃紺の絵の具を塗りたくったような暗い空。
「野球とは違う意味で、好きだった。」
「…今、は?」
「もう、どこへいったのか分からない。」
少しずつ離れていく牛尾の背中を、凪はただ見ていた。牛尾の言葉は、ひとことひとことが、重かった。なのに、どこか空っぽで。
「分からないんだよ。見つけたくても、もう駄目なんだ。」
凪は、初めて知った。失くすよりも哀しいことがあるという事を。
「僕は捨てたんだ。逃げ出した。どんなものだって、逃げた者に振り返ってくれるわけがない」
もう牛尾は声の届かないところまで行ってしまっていた。やはり、凪は見つめるだけだった。
捨てれば、同時に捨てられる。後でどれだけ後悔したとしても、抗えない事なのだ。
凪は知った。
“捨てた”者の、空ろな背中をもって。
今、彼を生かしているのは、恐らく野球への情熱。けれど、放棄することによって結局失くし、出来た傷は、そんなもので治ることではないのだ。
失くせば傷が出来る。そしてそれは治らない。
でも人は、傷になると分かっていても好きなものを作らずにいられない。
「受け入れるしか、ない……。」
星だけは、空で明るく輝いていた。
「凪さ――んっ!!」
突如辺りに響いた大声に、はっとして目を凝らすと、遠く彼方から見慣れた人物が猛スピードで近づいてきていた。
「…さ…猿野さん?」
どうしてここに、と聞く間もなく、相手は喋り出す。
「いや〜、凪さんまだ残ってたんスか!?あ、俺はっスね、今までバカ沢松に付き合ってもらって一本足打法がとりあえず体に染み付くようにって特訓を…っと、コレ、まだ極秘なんだった!凪さん、他の連中には内緒にしといてくださいね。ったく、散々ボロクソ言いやがって、あの連中め……あのね、俺は決めたんですよ、絶対目にモノ見せてやるって!」
これだけ一気にまくし立てた猿野をぽかんと見た後、思わず凪もくすりと笑った。
「…ご苦労様でした、猿野さん。頑張ってくださいね。私、いつも応援していますから…」
はいっ、頑張りますっ!!と、顔を真っ赤にしながら嬉しそうに返事をした猿野を、後ろから誰かが思いっきり小突いた。あの報道部の、猿野の言葉で言うなら「バカ沢松」。
てめえ俺のこと綺麗サッパリ忘れてただろ、ああ?俺は一度たりともお前のことを頭にインプットしたことなんぞねえわ、んだとこの野郎。
繰り返される他愛もない軽口は、どこか気心の知れた温かさがあって、聞いていて楽しい。凪は知らずに笑っていた。
いつか、この気持ちも失うときが来るんだろうか。そう、来る。卒業、いや、野球部をこの人たちが引退するときには、やはり失うことになる。
でも、そのあとで誰か一人くらいは、皆の夢を引き継いでいってくれるかも知れない。
大部分の人が今持っている「好き」は捨てて新しい何かを好きにならなければいけないだろうけど、今しばらくくらいは目の前のものを追いかけるだけでいいじゃないか。
だから。
だから、出来るなら…と、凪は心の中で小さくつぶやいた。
かみさま。
一度捨ててしまった人にも、もう一度だけチャンスを、あげてください。
更衣室から出ると、先に着替え終わって待っていてくれたらしい猿野がいた。凪は、やはり微笑んで、その傍へ駆けていった。
-------------End.
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凪さんとなら誰を組ませても好きですv凪さんはみんなのアイドルですから!(ぇ) 「カップル」としては猿凪だけを推奨していきたいと思ってますけどね。コンビなら牛鳥のほかにも犬鳥とか子鳥とか…とりあえずみんなほのぼのしてればいい(この小説ほのぼのしてないよ)
野球LOVEな牛尾さんが好き。しかしやっぱり私は猿凪が好きなようです…凪さん書くとどうしても猿野まで出ちゃう気が!;;